古佐小基史さんFacebookより

10月26日のイベントでお世話になるアメリカ在住のハーピスト古佐小基史さんのFacebookより

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現代生活の便利さについての一考(長文、Japanese Only)

 不便さをあえて楽しむという態度があると、田舎暮らしもなかなかオツなものです。

 基本的には、「便利さ=手間・時間をかけなくてすむ」ということですよね。

 ただ、「手間・時間をかけない=経験量が少ない」ということですから、食料をお店で買って手に入れれば、食料を育てる経験量が少なくなりますし、掃除で掃除機を使えば掃いたり拭いたりする身体を使った作業の経験が減りますし、洗濯物を乾燥機で乾かせば、日光や風のパワーを感じる機会が少なくなります。

 また、便利さを提供してくれるサービスやテクノロジーを活用することで、日常生活の中で頭と体を意識的に動員して物事に取り組む機会が少なくなるとも感じています。洗濯物を乾燥機にほうり込んでタイマーをひねる作業と、一枚一枚の洗濯物を物干に吊るし時間が来たらそれを取り込むという作業の間には、手間の上でも時間の上でもものすごい差がありますが、なによりも作業の難易度(要求される意識の高さ)で雲泥の差があります。

 丁寧に「手間ひま」をかけて日常の何気ない作業をすることで、いろんなものを自分の五感で直接感じ体感する経験と、あるレベル以上の意識を要求される複雑な作業に従事する時間が増えますので、日常的なさりげない作業がすべて心身にとっての良い修行となります。

 音楽は、それに関わる人間にいろんな経験を与えてくれる素晴らしい媒体です。音楽演奏家としての道を究めようとするだけでも人間修養の重要な部分を広くカバーすることができるかもしれません。ただ、いかに音楽が素晴らしいものであっても、それはオールマイティーではなく、調和のとれた人間性を獲得するためには、やはり多種多様な経験を十分に積まなくてはならないと思います。

 子育てに関わり、野菜作りをし、家畜の世話や屠殺/解体をし、自分で家の修理や管理をし、洗濯物を外に干して乾かし、掃除をほうきと雑巾で行い、既成の加工食品を用いず自宅で調理をし、こうやってFBにも文章を投稿する。こんな生活をしていると音楽に使える絶対的な時間は著しく少なくなります。しかし、そこで不安を感じるのではなく、床に雑巾がけをすることとハープを演奏することは、それを意識的に行うことにより根本的には同じくらい価値のある作業になり得るということを理解し、すべてのことを真剣に意識的に行うことが大切だと思えるようになりました。

 日常生活の中でいろんなサービスやテクノロジーの便利さを活用し、できるだけそれぞれの専門分野で使える時間を増やすことは分業による社会の基本的な仕組みなので、それ自体に異論はないのですが、そうやって得た余剰な時間を、AKB48の総選挙やテレビゲーム、テレビやインターネットのダラダラ見、ファッションやスポーツなどへの過度の熱中などに浪費していることがあまりにも多くはないでしょうか?
 
 現代人は行き過ぎた便利さを濫用する余り、人間の生存にとって本質的で深遠な経験をする機会を犠牲にしているように思えるのです。物質的に満ち足りていても幸福感を欠いていると感じ、鬱病をはじめとする精神疾患が増加し、薬物だけではなくインターネットやギャンブルという行為への依存症も増加しているのも、本来人間にとって大切な本質的な経験をする機会を目先の便利さと交換し、そうやって得た時間を取るに足らないことに浪費してしまう結果、自分の生存の意義、自己の存在が生態系・宇宙の中ですべてのものとつながっているという感覚などが感じられなくなってしまって来ているからではないでしょうか。

 また、便利さを得るために際限なく多くのサービスや商品が際限なく生み出され、過剰な化石燃料や自然資源の消費を促進することとなり、それによる深刻な環境問題に人類が直面する事態となっています。

 メールやインターネットの便利さにより、多くの職業で仕事可能な時間が週7日24時間に拡張され、娯楽やショッピングも24時間体制になりました。田舎で農業などと関わりつつ暮らす場合には、天候や日照により忙しいときと暇な時のメリハリがはっきりするので、自然と活動−休息のバランスがとれるのですが、都会生活では意図的/意識的に休むということをしない限り、活動ー休息バランスの崩れた不健康なライフスタイルに陥りやすくなっています。

 食料の確保、住居の整備、家族との協調など種としての人類にとってその生存に関わるベーシックな部分に関わることをするにあたって「面倒だ」とか「つまらない」というような子供じみた拒否反応に打ち勝ち、コアな部分で本当に価値のある経験量を増やすためには、生活環境の中に意識的/意図的な不便さがあっても良いと思います。

 古いしきたりや儀式は無駄ということで随分排除されてしまいましたが、それらは便利さの濫用の弊害を予期していた古代の賢者により作られ、それに歯止めをかける重要な社会的機能を果たしていたのかもしれません。